馬は「正しさ」を問わない。〈評価なき空間〉で身体はどう動くか――古武術×ホースセラピー合宿、参加者インタビューから考えたこと

レポート

東京から岩手に来た。会社員で、動物とほとんど縁のない生活をしている人が、合宿に参加した。

理由を聞くと、「エリカさんや方条さんが、やってることなら面白いだろうなと思って」という。馬に乗りたかった、というより、知っている人たちがいる場所に行ってみた、という感じに近い。動機はそのくらい緩やかだった。

彼女を仮に「とりちゃん」と呼ぶ。インタビューしたのは、馬と身体合宿の企画者でもあるあおいえりか(以下、えりかさん)だ。

インタビューを聴きながら、僕はずっと一つのことを考えていた。〈教える〉ことなしに、人の身体の中で何が起きているのか。そして馬という存在が、その過程においてどんな役割を果たしているのか。


「言われたからやった」から「自分がそうなっていた」へ

とりちゃんは、一回目の合宿での乗馬をこう語っていた。

「きびはらさんに教えていただいたのが、足の裏がまっすぐ地面についてるぐらいの姿勢で、なるべく正面見て、力を抜いてって。だから、それをやろうとしてたんですけど、なんで〈そうやること〉が必要なのかは、よくわかってなくて」

これは正直な言葉だと思う。言われたことをやる。しかし、〈なぜそうするのか〉は分からない。伝えた側の僕も、実はそれをどう説明するかに悩んでいる部分がある。〈身体でわかる〉ことを言語で先渡しすることの難しさ、あるいはそもそもの無意味さ、みたいなことを。

二回目の合宿で、何かが変わった。

「馬と私の関係性が、そこにあるのが先だったみたいな。自分が、そこにすっと座ってると楽とか、ここで今こう力を抜いた時に、こう動いてるのを感じてる自分がいて——あ、今ちょっと変な感じだな、『どこにいたらもうちょっといい』みたいなのを」

えりかさんがそこに言葉を添えた。「『言われてからする』じゃなくて、自分がそうなって、言葉と引っ付いていく、みたいな感じかな」と。とりちゃんは「そうそう」と繰り返した。

「言われたからやる」から「自分がそうなっていた」への移行。これは小さいようで、根本的な転換だ。

〈指示に従う身体〉と〈関係の中で動く身体〉は、表面的には同じ姿勢をとっていたとしても、その内側の質がまるで違う。前者は「正しいかどうか」を外部に問い続けている。後者は「今ここで何が起きているか」を自分の中で感じ取っている。

馬はどちらの身体かを識別する。言葉は識別しない。


評価の外に出ること

もう一つ、とりちゃんが語った場面がある。調馬索(ちょうばさく)のワークだ。

「一回目にやった時は、みんなどんな感じで、できるんだろうって思ってたんですけど、二回目の時は……めっちゃ走ったんですよ。めっちゃ追っかけて。その時は、人がどうとか関係なかったんですよね。たぶんね」

「周りに意識が飛んだ瞬間、多分止まるみたいな」

これは重要な証言だ。

見られている、という意識が身体から抜けた瞬間に、馬が走り出した。逆に言えば、見られている自分を意識している間は、馬は走らなかった。が走り出した。逆に言えば、見られている自分を意識している間は、馬は走らなかった。

えりかさんはその場面についてこう言っていた。「見てる人がいるなあ、ぐらいに落とし込めたら」——そこで何かが変わる、と。見られているという事実は変わらない。しかし「どう見られるか」への意識が薄れた時に、身体は別の何かに向き始める。

馬は「周囲の評価に晒された身体」と「今ここにある身体」を区別する。この識別能力は、人間の言語コミュニケーションにはない。どれだけ「できています」と言っても、馬には届かない。どれだけ「できていない」と思っていても、身体がそこにあれば馬は応答する。

〈評価なき空間〉という言葉を、僕は三陸駒舎の実践を説明するときに使うことがある。これは「それって、良いね!」と褒めるような場所という意味ではない。「あなたのパフォーマンスへの評価が介入しない場所」ということだ。馬という第三者の存在が、その空間を構造的に担保している。

とりちゃんが走った瞬間は、評価の外に出た瞬間だった。


身体知は「逆順」でしか届かない

方条さんのクラスについて、とりちゃんはこう言っていた。

「『相手をこう動かしたいから、こうしたけど動かなかった』っていう結果にフォーカスするんじゃなくて、自分がどう動けてるか、自分が脱力してるかの方が大事。相手をどう動かしたかはその結果として、自分が出来てないから動いてない、という話になるんだな、と」

これは武術の稽古の話だが、乗馬でとりちゃんが体験したことと構造が同じだ。

えりかさんはこの話を受けて、稽古の中での具体的な場面を語ってくれた。「よくお稽古で、『手のところを動かしてるか、自分の肘を動かしてるか』、そこに意識を変えてみて、っていうお稽古をする」と。意識をどこに置くかで、相手への伝わり方が変わる。その意識の置き場所そのものを稽古している、ということだ。

結果から遡るのではなく、自分の身体の状態を先に問う。相手(馬であれ人であれ)の反応は、その後にやってくる。

面白いのは、とりちゃんが乗馬で体感してから、「ああ、きびはらさんが言ってた姿勢ってこういうことか」と言葉と一致した、という順序だ。

言語的な説明が身体に先行するのではなく、身体の体験が言語を後から回収する。教育的文脈でいう〈学習〉の多くは前者の順序で設計されているが、身体知の習得は後者の順序でしか本当には届かない。馬がいる環境は、その「逆順」を自然に生み出す。


「ダメなことはダメ」という輪郭が自由をつくる

とりちゃんは動物が得意ではなかった。子どもの頃に犬に追いかけられたことがあって、動物全般への警戒心が残っていた。

「馬さんは触っても、反応が緩やかな感じだったので。ガシガシやらないから、ガシガシも来ないし。乗っかっても逃げないし、ああ、それもいいんだみたいな。ちょっとずつ、自分の中では『やったことないハードル』を、ゆっくり反応してくれるので」

馬の特性として、反応の速度とスケールが人間の基準と違う、ということがある。犬の「突然吠える」「急に動く」という反応パターンに身体が警戒していた人が、馬の「大きいが緩やか」という反応に安心していく。これは動物の種差というより、身体が〈どう応じられるか〉の問題だ。

同時に、とりちゃんは「『ダメなことはダメ』って先に言っていただけるので」という言葉も使っていた。えりかさんも同じことを言っていた。やってはいけないことが明示されているからこそ、その外側で自由に動ける、と。

自由に見える場所には、必ず輪郭がある。輪郭がないと人は動けない。何でもいいよと言われると「何でもいい」に固まってしまう。でも「これとこれは馬が嫌がる、それ以外はやってみて」という輪郭があると、その内側で人は初めて自分の選択をし始める。

〈評価なき空間〉は〈輪郭なき空間〉ではない。むしろ逆だ。明確な輪郭があるからこそ、その内側で評価から解放された動きが生まれる。


携帯をほとんど見なかった、という事実

インタビューの中で、さりげなく出てきた言葉がある。

「携帯ほぼ見てないなあと思って。それ見てるよりも面白いことがあるな、みたいな感じの時間が多くて」

えりかさんも「私もそれ、帰ってきていつも気づく」と言っていた。写真も動画もほとんど撮らない。なぜか。目の前に携帯を見るより面白いことが起きているからだ。

これは僕が意図して作ったものではない。馬の世話のタイミングがあって、ご飯があって、犬の散歩があって、稽古があって、夜の対話がある。その連鎖の中に身体が入ると、情報を外から受け取り続けることよりも、目の前の関係に応答することの方が自然になっていく。

スマートフォンへの没入が問題になる文脈で「デジタルデトックス」という言葉がよく使われるが、僕はその言葉が好きではない。何かを「断つ」ことを目的にした空間は、断った後に何が残るかを問うていない。

馬がいる場所では、代わりに何かが起きているから携帯を見なくなる。これは「断絶」ではなく「置換」だ。関係に応答する身体が、情報を消費する身体の場所を占めていく。


馬に「受け入れられてしまった」という感覚

最後に、とりちゃんのこの言葉を引きたい。

「三陸駒舎のお馬さんが初めてで、そこに、すっと受け入れられたっていうか……受け入れてもらっちゃったみたいな感じがあるので、こっちもなんか、あんまり抵抗なく。『気持ちいいね、あったかいね、ありがとうね』みたいな感じの出会いができてるんじゃないかな」

「受け入れてもらっちゃった」という表現が正確だと思う。「受け入れた」ではなく、「もらっちゃった」。自分が何かをしたからではなく、気がついたらそうなっていた、という受動性。

えりかさんはそこに、別の角度から言葉を足した。「一緒に生活しているところに、ほんとにお邪魔して」という感覚、そして「日を追うごとに——お馬さんと触れられる時間、ご飯あげる時間、自分たちがご飯食べる時間、みたいな——そのリズムの中に落ち着いて、一緒にいられる」という感覚。これは観光で馬に乗る体験とは根本的に違う。馬の生活のリズムの中に人間が入っていく、という構造だ。

馬は人を評価しない。過去を参照しない。「この人は動物が苦手だ」という情報を持ち込まない。目の前の身体に、ただ応答する。だからこそ、「動物が苦手だった自分」という物語から切り離された接触が起きる。

それが「もらっちゃった」という言葉になる。

僕が〈評価なき空間〉と呼んでいるものの中心には、この馬の応答性がある。人間のファシリテーターがどれだけ工夫しても、馬がいる場所とそうでない場所では、この種の「もらっちゃう」体験の生まれやすさが根本的に違う。

とりちゃんはインタビューの最後にこう言っていた。

「何を得られましたか?って言われると、なんだかわかんないんですけど。でもまた行きたいと思う」

えりかさんは締めにこう言った。「何を感じてたとか、そういう話って、合宿でもそんなにたくさんはみんなしてない。聞かせてもらえて嬉しいです」と。

語られなかったことの中に、体験の核心がある。わからないけど、また行きたい。これが、身体が覚えたということの、最もシンプルな証拠だと思っている。


5月、岩手に来てください

2026年5月16日(土)〜18日(月)、三陸駒舎のフィールドで「馬と身体合宿」を開催します。

方条遼雨さんの古武術の教室と、三陸駒舎での馬との時間が交差する3日間。方条さんの稽古で体験したことが馬の上で腑に落ちる、あるいはその逆が起きる。それがこの合宿の構造だ。

とりちゃんが語ってくれたような「わからないけど、また行きたい」という感覚は、説明より先に体験の中にある。日帰り参加も可能です。

▼詳細・申し込みはこちら

馬と身体合宿 参加者インタビュー:とりちゃん
インタビュー:あおいえりか(馬と身体合宿 企画者)
文:きびはらゆたか

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